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Title: 少女の露刃剣
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topic:- 哲学,
午後、カフェの窓際。
私のスマートフォンのモニターの中では、いわゆる知識人らの議論が白熱している。
論題は、環境問題のようで、そのテーマの大きさ故に、様々な命題が交錯している。人はしばしば、多数の中で自らの立場を優位に図ろうとするが、この議論に於いても、一部の者は、命題が理想的に響くよう、一義的に論じようとしている。
しかし、一義的な論は「 四句分別* 」に掛けてみると、各立場の視座から反証が可能だと気付かされる。
[ 四句分別 ]
① 肯定
命題は理想的である。
② 否定
命題には制約がある。
③ 両立
命題は部分的に正しい。
④ 両否定( 非二元的 )
命題は不条理である。
肯定すれば理想は見える。
否定すれば制約が顔を出す。
両立すれば部分的な正しさに落ち着く。
両否定すれば、命題そのものが不条理となる。
肯定・否定・両立・両否定を巧みに入れ替え追い詰めれば、論理の逃げ道は断たれ、矛盾は露呈する。
つまり、矛盾は前提次第で矛盾ではなくなり、逆も然りとなる。
メディアに露出する政治家や知識人の得意げな声が浮かんでこないだろうか。
彼らは、本質的な豊かさの提案よりも、聴衆を酔わせる雄弁術に徹している。
行動経済学の確立は、人が必ずしも合理的に行動しないことを明したし、
数学の世界では「 矛盾 」が存在せず、あるのは人の感情の満足だけだとも証明された*。
換言すれば、絶対的な真理は存在せず、正誤判断は私たちの感情の采配に過ぎない。この自覚は、社会倫理の拠り処を失わせもする。
行き着くところ、凝り固まった思考を停止すると楽になれるわけだが、そうすると、大規模定住社会の循環の中で、コモンセンスに身を任せ日和見する生き方が身に馴染んでしまう。
それは気儘で無害だろうか。
云々、自問は絶えない。
「 およげ!たいやきくん 」の唄が頭の中で流れだす始末だ……
……行き詰まったとき、禅には凝り固まった思考を一刀両断する法がある。
「 露刃剣* 」
常態化された理屈や習慣に依拠させず、直観的に本質を切り開く観照の剣だ。
「 なぜ雪は白いのか 」
いくら考えても答えがでない問い。
これを斬る。
「 畢竟、白いから白い 」
子供のように、ありのままを感じられれば、そもそも、この問いに意味は無くなる。
露刃剣は、狭く閉じた論理空間を斬り、刹那に「 無 」を与え、思考の自由を取り戻させる。
先の矛盾や罠も、その鋭い一閃で曇りを晴らせるなら、どんなに素晴らしいだろう。
持ち上げたコーヒーカップから視線をふと逸らすと、街路で小さな女の子が、顔ほどもあるソフトクリームを覗き込みながら、持ち手と首を同時に傾け、灰色の地面を白くペイントした。
窓越しに、無声映画のように泣きじゃくる少女の顔が胸をつく。蓋し、少女の露刃剣に斬られる中年。
「 なぜソフトクリームは白いのか 」
「 畢竟、白いから白い 」
無限経済成長という拙い試みを、グローバル社会は通念としたわけだが、人体も含めた自然環境がいつまでも保つ筈はない。
止まれば死ぬ魚。
死ねば止まる。というだけだ。
経済が崩壊しても、それでも人は生きるのだから。
あの少女が大人になった頃、心から笑顔になれる共同体が在れば、それで良いはずだ。
自然界に善悪はなく、在るのは白いものを白いと感じる人の情緒だけなのだから。
author: Kouzou Saika
[ 註釈 ]
*四句分別
物事を「肯定・否定・両立・両否定」の4つの視座から検討し、矛盾が避けられないことを示すインド中観仏教の思考法。
*露刃剣
禅における概念で、「無は刀剣の如き切れ味を持つ」という意味を表す。対象者の凝り固まった思考や執着を、刹那に「無」とする技巧またはその比喩である。公案「趙州の露刃剣」はよく知られ、趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん)の鋭い示唆を伝えている。
*数学の世界に於いて矛盾は存在せず、あるのは人の感情の満足だけだと証明された
岡潔・小林秀雄 著『人間の建設』に基づく。数学は論理的に矛盾を含まず客観的真理を探求する世界であるが、ゲーデルの不完全性定理(1931)により、体系内では証明も反証もできない命題(自己言及的命題)が必ず存在することが示される。さらに、ポール・コーヘンの集合論研究(1963)は、この限界を具体例として示した。 つまり数学の世界では「矛盾」は生じないが、「すべてを説明する完全な体系」もまた存在しない。残されるのは、証明を選び取る人間の直観や感情の満足である。
[ 参考文献 ]
岡潔・小林秀雄 (2010) 『 人間の建設 』新潮文庫, 新潮社 [ 初出:1965年10月「 新潮 」掲載 ]


